ガチで車にひかれた女子高生が、逆に人生救われてハッピーになった話(2)

さて11月、秋が深まってきましたね。

二人でひとつのベッドを共用しているかなぶん親子。

(※家が狭いんで)

夏は(一緒に寝ていると)地獄のように暑いのですが、この時期はあったかくてぬくぬく( *´艸`)。

睡眠がシアワセすぎるかなぶんです。

 

 

 

さて、本題。

先日の事故った話

 

ガチで車にひかれた女子高生が、逆に人生救われてハッピーになった話(1)

 

この続きです。

 

 

病院にかつぎこまれて即日入院となった、女子高生時代のかなぶん。

検査の結果、左大腿骨と左上腕骨、腓骨(ひこつ)の合計3本の骨を骨折していました。

 

 

とくに左大腿と左上腕は、開放骨折。

つまり、皮膚が骨折によって損傷してグチャグチャになっている状態でした。

また大腿部は皮膚剥離しており、砂や石が食い込み、洗浄に非常に長い時間がかかりました。

出血もひどく、(普通の人と比較して)血液濃度が半分(6.0だったかな)まで薄まってしまいました。

 

 

ケガは本人が思うよりずっとヤバくて、担当医から「重傷」といわれるような状態に・・・トホホ。

その結果、3カ月の入院を余儀なくされたかなぶん。

学校に通うことができず、終日ベッドに括りつけられることになります。

抑圧された、非常に苦しい入院生活になった・・・・・かと思いきや。

 

かなぶん
ぜんぜん、そんなことなかったんだな~。

 

女子高生時代のかなぶんは、入院生活を満喫しておりました。

 

いつも「消える」ことを考えていた高校時代・・・

もともと高校時代のかなぶんは、幸福感を得にくい性格をしていました。

(ひねくれた性格だったともいえます)

 

かなぶん
今だったら女子高生っていうだけで、無条件に幸せですけどねw

 

「死にたいなあ」

「消えてしまいたいなあ」

と、常に考えているような根暗な女の子w

 

 

友達も普通にいましたし、イジメられていたわけでもありません。

でも、なんとなく孤独で、退屈で。

体育祭や文化祭なんかのイベントも、なんだか気持ちが冷めてて、心底楽しいと思ったことがない。

そのときそのときを「なんとかやり過ごす」ことだけを考えるような子でした。

 

 

家に帰っても、わからずやの親が待っている。

(先回書いたような)両親の不和だったりもそうですが。

子供(わたし)に対して異常なほど過干渉なくせに、肝心なところでは突き放してくる母親だとか。

子育てに無関心で、なんでも見て見ぬふりをする父親だとか。

・・・身体的な虐待があったわけじゃないので、「甘えるな」といわれればそれまでなんですが。

 

 

敵はいない、が、味方になってくれる人がいるわけでもない。

いつも薄曇りの天気のなか、うすーい「鬱」のなかでさまようような感覚。

そこに受験というプレッシャーがかかってくるわけです。

「将来何になりたいか?」

「その夢をかなえるためには、どうすればいいのか?」

だれか相談できる人もおらず、だからといって自分で答えも見つけられず、なんとなく時間が過ぎてしまった。

 

 

かなぶん
高三って、時間は待ってはくれないことの恐ろしさを、はじめて身近に感じるときじゃないでしょうか。

 

で、どうしょもないので現実逃避するわけです。

よく学校の帰り道、小さな神社で道草を食うことが好きだったかなぶん。

人気(ひとけ)のない地元の八幡社。

手入れがされていない雑木林があって、草もボーボーです。

(よく考えると、怖いところです(;’∀’))

しかしひとりで静かに読書をしたり、考え事をするのにうってつけの場所なのでした。

 

かなぶん
ちょうど、高村光太郎の詩「冬が来た」を読んだりしてました。

 

「冬が来た」 

 

きっぱりと冬が来た
八つ手の白い花も消え
公孫樹(いちょう)の木も箒になった

きりきりともみ込むような冬が来た
人にいやがられる冬
草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た

冬よ
僕に来い、僕に来い
僕は冬の力、冬は僕の餌食だ

しみ透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刃物のような冬が来た

高村光太郎(詩集「道程」より)

 

これです、知ってます?

(高村光太郎のこの詩だって、けっこう自傷的な詩じゃないかなと思うんですが。)

この詩にとても共感し、なんども読み返してました。

 

 

清冽な冬の冷気の中に身を置いているうちに、

悩みや苦しみが肉体とともに冷気に溶け、

やがて霧のように消えてなくなればいいのに・・・・

 

そしてわたしは誰の記憶からも消え、

初めからなにもなかったことにしたい・・・・・・。

 

なーんて、ね☆

痛いです。

中二病(という言葉は当時ありませんでしたが)まっさかりな感じですね?

 

 

そういうなかで、交通事故にあったわけで・・・・

「死にたい」「死にたい」と言っていたかなぶん。

とうとうバチが当たったかしらん、と過去を猛省しました。

 

 

病院はシェルターだった?家庭からも学校からも隔離された「社会」

「あんたみたいな甘い考えで、社会に通用するわけがない」

「社会はもっと厳しい。もっとシッカリしてくれないと!」

 

母はわたしにたくましく育ってほしかったんでしょう。

小さいころからよく怒られました・・・

(いまでさえ、ぜんぜんシッカリしてないしね)

 

 

そのせいもあり、わたしにとって社会とはとてつもなく恐ろしいところという印象でした。

でも図らずも、病院に入院することになったわけです。

病院って、フツーに「一般社会」じゃないですか。

入院患者さんは、若い人から年寄りまで老若男女、さまざまな世代の人がいて、病院ではたらく人々も含めほとんどの人が「社会人」。

学校や家庭から遮断されて、いきなり一般社会に放り出されたカルチャーショックは、それはもう凄まじいものでした☆

 

 

だって、はじめて親や教師以外の現実の大人を知る機会だったんです~。

医者や看護師、看護見習い、リネン担当のおばさん、お掃除のパートさん、栄養士さん、ボランティアさんなどなど。

入院生活の毎日が、大人たちの働きぶりをつぶさに観察できる職業見学みたいなものでした。

 

 

で、その結果わかったこと。

「大人って、ぜんぜん大したもんじゃなかった」

いや、仕事はもちろんしていらっしゃるんですが、ぜんぜん患者の前でグチるし、疲れてサボるし。

でも親切で、ときどき優しくて、大半は退屈そうでw

シッカリしてない人ももちろんいて、ぜんぜん社会人は、フツーの人ばっかりだった。

「気張って大人になる必要ないんだな」って、ほっとしたんですよね。

(まあ、結果的にこういう大人になっちゃいましたw)

 

癒されたのはケガだけじゃない!病院の大人たちが皆優しかった

とくに親しくしている親戚などもいないかなぶん。

これまで親や教師以外の大人と、交流する機会がありませんでした。

でも、病院では・・・

 

 

朝起きると、腰痛で入院している相部屋のおばさまが私に話かけてくれます。

「今日はどう?かわいそうに、痛いだろうけど。日にち薬っていうから・・・」

ぜんぜん関係ない人なのに、果物や菓子の差し入れをしてくれました。

 

 

向いのベッドは25歳のお姉さんでした。

彼女は工場の機械で指をプレスしてしまったのだそうで、右手の指が全部ありません。

でもときどき目が合うと、指のないグーの手を振り、まぶしい笑顔で会釈してくれます。

これから結婚するんだそうで、彼氏さんが毎日のように見舞いにきていました。

腰痛のおばさんが「結婚するのに指がないなんて・・・」と、心配そうにつぶやいています。

 

 

人々とのふれあいは、わたしにとって救いでした。

急に、世界が広がったような気がしました。

患者さんたちは、なんらかの苦しみを抱えていて、だからこそ親切も優しさも、決してうわべだけのものではないもののような気がしたのです。

わたし自身も大変な事故から生還しただけあって、「生きている喜び」をこれまでにないほど感じてました。

 

 

なにより、ほとんど毎日、見舞いに来てくれる母が「優しい」のです。

これまで一度も買ってくれたことのない、マンガ雑誌をお土産に持ってきてくれたり。

プリンやらシュークリームやら、いつもおいしい何かを後ろ手に持ってきてくれる母。

家から車で一時間以上もかかる距離なのに。

病院では以前のように怒られることも、説教されることも、文句をいわれることもありませんしねw

 

 

忙しい仕事の合間に、父もときどき顔をみせてくれました。

照れくさそうにしているお父さん。

べつに何を話すわけでもなかったんですが。

作業服の油のにおいが病室にただようと、「あ、お父さん来たんだな」って嬉しくなりました。

 

 

家族は離れてみると大切さがわかる。

陳腐な言葉なんですが、まさにその通りなんですよね。

 

 

 

入院は、もちろんケガを治療するため。

しかし実際は、日常から隔離された場所で、こころのケアをされていたような気がしてなりません。

 

・・・つづく(つづくんです~っ!)

続きはこちら→

ガチで車にひかれた女子高生が、逆に人生救われてハッピーになった話(3)

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